映画感想:インヒアレントヴァイス
※少しだけネタバレをしています
恒例の手短な感想から
素晴らしい!
といったところでしょうか。
マグノリアの映画レビュー記事にもあるとおり、僕はポール・トーマス・アンダーソンの映画がこの上なく大好きなわけですが、インヒアレントヴァイスも案の定、大変素晴らしい映画となっていました。
原作はトマス・ピンチョン著「LAヴァイス」であり、この原作を既に読んでいた僕は、「おそらくポール・トーマス・アンダーソンはこういった映画にしようとするだろう」と予測を立てていたのですが、その予測以上の映画になっていると言えます。
まず、意外だったのはサイケデリックな表現を実は、極限まで排していることです。ここまで70年代80年代的な空気感を見事に表しておきながら、実は当時の映画によく使われていた”いかにもな”サイケ表現、ドラッギーな映像描写というものが、徹底的に使用されていないのです。
普通の映画監督であれば、安易にそこに飛びつきがちですし、僕自身もポール・トーマス・アンダーソンもそうするだろうと踏んでいたのですが、これをまったく使用せずに、ライティングとカメラワーク(それも映している構図や、ピントでぼやけさせたり等のシンプルなテクニック)のみで”どこかフラフラする感覚””ふわーっとした感覚”を呼び起こしていることに度肝を抜かれてしまいました。
特に印象的なのは、この映画では「登場人物の首から上」がよく見切れているということです。分かりやすく言ってしまえば、登場人物がトムとジェリーに出てくる家政婦のおばさん状態なのです。
こうして、主人公と関わりのない人たち、ジャンキーな状態にはない人たちを、カメラから見切れさせたり、ハッキリとは映さないことによって、この映画が「ドックとその関係者達のみが共有しているよく分からない世界」を描いていることを暗に観客に印象づけているのです。
そして、そのよく分からない共有した感覚こそが、70年代80年代で言うところの「多幸感」という感覚であり、この映画は、その見事な再現を成功させていると言えます。原作は、この多幸感というものの「中身の無さ」「マヌケさ」というものをノスタルジー含みながら巧みに描いた傑作でした。
この時点で、原作の映画化としては百点満点なのですが、ポール・トーマス・アンダーソンは当然それだけで終わらせる監督ではありません。彼自身の哲学さえ、この映画の中に突っ込んでしまうのです。それは、前作の「ザ・マスター」でも描かれていたものであり、そして、おそらく「マグノリア」あたりから彼がずっと追い続けているのであろう哲学です。
もちろん、この哲学は原作にも見られたものだったのですが、ポール・トーマス・アンダーソンはそこを見抜き、映画上にかなり引き出すことにも成功しています。
例えば、中盤で描かれた、占いの結果、見に行った場所がどうなっていたでしょうか。黄金の牙という組織は、一体この映画ではどういう扱いになっていたでしょうか。真相へと辿りつこうと藻掻いているドックが、辿り着いた場所にあったものは一体なんだったのでしょうか。
いえ、”あったもの”という表現は変かもしれません。なぜなら、そこにはなにもないのですから。
ラツキヨウを食べつゝ考へる(私はラツキヨウが好きだ、帰庵して冬村君から壺に一杯貰つたが、もう残り少なくなつた)、人生はラツキヨウのやうなものだらう、一皮一皮剥いでゆくところに味がある、剥いでしまへば何もないのだ、といつてそれは空虚ではない、過程が目的なのだ、形式が内容なのだ、出発が究竟なのだ、それでよろしい、それが実人生だ、歩々到着、歩々を離れては何もないのが本当だ(ラツキヨウを人生に喩へることは悪い意味に使はれすぎた)。
突然、引用したのは、種田山頭火が其中日記で書いた一つの人生への悟りです。なぜ引用したのかというと、極めてこの映画が言いたい哲学に似ているからです。もっと言えば、内容自体にも似ています。
この映画は、何層にも重なり、複雑に入り混じった真相を一つ一つ解きほぐしていく映画でした。しかし、その解きほぐした先にあったのは、なんだか釈然としないものであったように思います。
なにかもっと大きなハッキリとした陰謀が蠢いていたかのように見え、そして、主人公もそれを追っているかのように見えました。でも、いざ辿り着いた真相は、どれもこれもそんなものではなく、もっと言えば、ドックが追っていた、昔の恋人さえアッサリ見つかってしまいます。
真相にはなにも無かったのです。真相の少し手前にある、たくさんの事実が絡み合って、巨大な真相がいかにもあったかように見えていただけで、実際、その事実一つ一つを剥いてしまえば、種田山頭火が述べるラツキヨウのごとく、そもそも無かったのです。
この”いかにもあったかのように見えていただけのもの”こそが、つまりは、事実に〈内包されていた欠陥〉――インヒアレントヴァイスであるというわけです。しかし、このインヒアレントヴァイスはときとして、この映画のように、事実よりも人を動かしてしまう事があるのです。