雑記:デジモンハリケーンについて
序
この間、ニコニコ生放送にてデジモン劇場作品がまとめて放送されました。内容はデジモンアドベンチャーとデジモンアドベンチャー02のそれぞれの劇場版アニメをまとめた四作。
細田守監督の出世作も含まれている構成であることもあって、それなりの人数が鑑賞したようですが、やはり、四作の中でも、鑑賞した人たちを強烈に困惑させたのは、このブログでも紹介している、
「デジモンアドベンチャー02 前編 デジモンハリケーン上陸!! 後編 超絶進化!!黄金のデジメンタル」
でしょう。
この作品、上記のレビュー記事でも挙げているように、かなり、アニメ映画として――というより、映画として――奇天烈な作品となっており、まあ、ライト層にとっては取っ付きづらい作品ではなかったのかなと思うのです。
あまりにも、見慣れないのでどう鑑賞すればいいのかよく分からなかった人が多いのではないかと。人によっては「あーそういう、意識高い系が喜ぶようなやつね」と拒絶反応を示してしまう人もいるかもしれません。
ただ、本作、実はそこまで難しい作品でもないのです。そもそも、子供向けのアニメ映画ですし、なので、子供でもなんとなく話を理解できてしまう子もいるかもしれません。
取っ掛かりさえ、見つかってしまえば、意外と容易に読み解ける作品となっています。
この記事では「デジモンアドベンチャー02 前編 デジモンハリケーン上陸!! 後編 超絶進化!!黄金のデジメンタル」を読み解く取っ掛かりを失っているあなたが、取っ掛かりを見つけられるようにアシストする記事を書いていきたいと思います。
(アシスト目的なので、いつもと違って形式も読みやすくしてみました)
デジモンハリケーンの本質は「ウォレスの心」
さて、まずこの映画ですが、鑑賞された方なら分かる通り、一人ゲストとして物語の主役を務めるキャラクターが出てきます。チョコモンとグミモン、二匹のデジモンをパートナーにしていた少年、ウォレスです。
ウォレスは、映画本編でもグミモンや大輔に何度も言われているように、年齢に反して、自分のママに反抗することが出来ない”マザコン”な少年として描かれています。マザコンな少年が「大人になる」と言って、一人で旅をしている、そういう話なのです。
実はこの映画の本筋は、これです。
この映画は「ウォレスが旅を経て、大人になるための一歩を踏み出す物語」であり、そのウォレス自身の心を描いた作品なのです。
チョコモン
この映画の冒頭は、幼いときのウォレスとチョコモン・グミモンが一緒に遊んでいる場面から始まります。その場面の中で、チョコモンだけがよく分からない現象に見舞われ、はぐれてしまうわけですが、実はこの場面こそがウォレスという少年をよく表しているのです。
幼いときに、はぐれてしまったチョコモンは本編でも分かるように、自分の成長に気づかないまま、ひたすら自分が幼かった時に戻ろうとそれを求め、デジモンに関わりのある子どもたちを次々に攫っては、彼らを幼児退行させながら「幼かったときのウォレス」を探して彷徨っています。
これは本編中のウォレスも同じなのです。ウォレスもまた、大人になるために一人旅に出ると言いながらも、その実は自分が幼かったときに過ごしていた場所――サマーメモリーに向かっています。彼自身も、実は心の底で「幼かったときの自分」を求めているのです。実際、セリフでも「サマーメモリーに行けば、きっとなんとかなる」と彼は言っています。
その姿は「幼い時に戻ればなんとかなる」と思っていたチョコモンと一致します。
そうなのです。チョコモンは「ウォレスの幼さ」の象徴なのです。それはチョコモンが基本的に退行を起こす能力を持っていることからもよく分かります。
グミモン
そして、グミモンはそんな「幼い心」とは正反対の、大人になりたい心を表しています。グミモンはウォレスの幼い部分を、いつも指摘し、事あるごとにウォレスのことを諭そうとしています。ウォレス自身も、グミモンの小言をうるさいと思いながらも、自分の幼さを自覚しているのは確かです。
でなければ、そもそも、「大人になるための旅に出る」なんて行動をするわけがありませんから。常に母親に心配かけないように電話してしまうような、マザコン少年ですが、それと同時に母親から卒業したいという心も持ち合わせているわけです。
二匹のデジモン
ウォレス自身の「幼くありたい心」と「成長したい心」は映画本編上で、よく矛盾した反応を起こしています。前述したように「大人になる」と言いながら、なぜか「幼い記憶の場所(サマーメモリー)」へと戻ろうとしていることからも分かるように、実はウォレス自身、認識の合わない心同士が分裂しているような状態だと言えます。
元々は同じように過ごしていたのに、はぐれることで2つに別れてしまったチョコモンとグミモンは、ウォレス自身の心をよく表しているのです。
この映画本編は、そんな、誰しも何度も経験する「成長したい心」と「幼くありたい心」の二つがぶつかりあう様子を描いたものなのです。そして、そんなぶつかり合いの中で「暴走してしまった幼い心」をどうにか、子どもたちが救い出そうとしている物語なのだと言えます。
幼さの救済
しかし、これは社会の上でも、学校生活の上でもよくあることなのですが、「幼い心」というのは、なかなか他人がどうこうして変えられるものではありません。
どこまで、他人が尽くしても、最後の一歩は「自分側から踏み出さなければいけない」のです。つまり、「幼い心」自身が自分のどうしようもなさに気がついて、幼さ自体から脱却しないといけないのです。
そうしないと、成長したことにはなりません。
つまり、幼い心自身が幼さを脱却する必要があるのです。
しかし、よく考えてみてください。前述したように、チョコモンとは「幼さの象徴」であり、チョコモン自身が幼さそのものなのです。チョコモンにとって幼さの否定とは、同時に、自分自身の否定を意味します。
だから、チョコモンはラストで、あの選択肢を取るしか無かったのです。
まとめ
どうでしょう。意外と、こうして読み解いてみると、実はこの映画「難しい話は全くしていない」ことに気づけると思います。むしろ、どこにでもあるような、ごくごく当たり前の、普通の話をしているのです。
成長するためには、幼い自分をどこかで否定しないと行けない。幼い自分を全肯定し続けることは出来ない。なぜなら、もう、自分は幼くないから。
こんな、よくある物語を抽象的に描いているだけなのです。