儘にならぬは浮世の謀り

主に映画の感想を呟くための日記

映画感想:永遠に僕のもの


【予告編#1】永遠に僕のもの (2018) - ロレンソ・フェロ,チノ・ダリン,メルセデス・モラーン 原題:EL ANGEL

  恒例の手短な感想から

もはや、気狂いピエロを超えている

 といったところでしょうか。



 SNSに流れていた本作の予告編を見て「あれ、なんだかすごい映画なんじゃないか、これ」と直感的に思うところがあり、鑑賞してきました。アルゼンチン映画である本作は、アルゼンチンで実在した、シリアルキラー「カルロス・ロブレド・プッチ」をモデルにして、自由奔放に、自分の感情のままに怪物じみた少年が、次々楽しいままに、非道徳的な行為や、犯罪を犯していく姿を描いている――いわゆる犯罪映画です。

 

 本編を鑑賞になった方も、あるいは予告編を見た方でさえ、「この映画はひょっとしてアレみたいな映画なのではないか……?」といくつかの映画や小説を思い浮かべたと思いますが、その連想はほとんど当たっていると言っていいでしょう。

 

 

 本作は例えば、パトリシア・ハイスミス原作の映画「太陽がいっぱい」や石原慎太郎の小説「太陽の季節」や「完全な遊戯」など、あれらの作品に通じるテーマや描写、設定などが散りばめられており、あれらの作品が現代において復活したと言っても過言ではないでしょう。

 いえ、むしろ、本作はその全てを足してしまった作品と言ってもいいです。つまり、本作は主人公が内面に抱えている「同性愛」を描いた作品でもあり、同時に、主人公がやはり内面に抱えている「衝動」を描いた作品でもあるのです。



 この時点で、本作が相当に恐ろしいほどに素晴らしい映画であることは瞭然かと思いますが、実際の作品は、更にその上を行くとんでもない映画です。

 

 はっきり言って、映画ファンならば今年、映画館で本作を絶対に見たほうが良いと思います。好みの激しい映画ではある気がするので、「合う/合わない」の差はあると思います。が、本作に関しては賛否に関わらず、みんながこう評することでしょう。

 

 「なんだ、これは」と。

 

 まるで、初めて、まったく知識がないときに、ジャン・リュック・ゴダールの「気狂いピエロ」を見てしまったかのような衝撃を受けることだと思います。実際、自分はそれだけの衝撃を受けました。いえ、それ以上の衝撃を受けました。

 この映画は、確かに上記で示した、様々な先行作品を連想させる「テーマ性」も確かに素晴らしいのです。しかし、それ以上に、この映画は、その筋書きや演出や撮り方や最後の終わらせ方に至るまでの全てが、あまりにも自由奔放で、異様な魅力を放っていることが何よりも素晴らしいのです。

 

 主人公の、決められた道など歩みたくないとしている自由奔放さと、まるで共鳴するかのように話の筋書き自体も、自由奔放なのです。

 例えば、自分は冒頭で「この映画は犯罪映画だ」と述べました。おそらく、本作を見ていない人のだいたいが、ここまで読んで「ということは、主人公がずっと犯罪を重ねていく映画なのだろう」と思ったのではないでしょうか。

 

 それがまったく違うのです。

 

 なんなら、映画の中盤では主人公たちはまったく犯罪をしません。主人公の相方に至っては犯罪以外の自分の道が見つかったために、「もう犯罪からは足を洗うのさ」なんて言い出したりしている始末です。そういった物語の定形や観客の思う「きっと、こういう映画だろう」という予測を、次々と裏切っていくのです。

 

 

 この映画は常に「なにか良くないことが起こるんじゃないか」と不安にさせるような描写、不安を掻き立てさせられる暗示が多くあり、主人公は延々といわゆる”死亡フラグ”を踏み続けていて”常に思わせぶり”です。

 しかし、観客の「きっと、このあとにこういうことが起こるんじゃないか」と「この話はこうなってしまうのではないか」という予感を、この映画は徹頭徹尾、最後の最後まで裏切り続けます。

 「え、そこでそこを撮るのか」「え、そこでそんな展開になるのか」「え、そこで急にそんな音楽を流すのか」「え、そこで音楽を切るのか」――この映画を鑑賞された方は、きっと様々な場面で「えぇ?!」と困惑させられたはずです。

 

 早い話がこの映画には「一体、この次に何が起こるのか全く分からない」という不安感が常にあるのです。

 そして、その何が起こるか分からない不安の中で、超然的に存在している主人公の「圧倒的な安定感」にとにかく魅了されてしまうのです。



 本当に、ここまで「自分が、なぜこれほどに鑑賞した後、興奮してしまっているのか理解できない映画」は久しぶりです。

 本作は人生の記憶に残る名作だと言って過言ではないでしょう。

 

 そして、本作で流れる「The House of the Rising sun」ほどカッコいいものは、絶対にないでしょう。


The House Of The Rising Sun The Animals 4K-HD {Stereo}

映画感想:ドラゴンクエスト ユア・ストーリー


「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」予告②

 恒例の手短な感想

いつもの山崎貴

 といったところでしょうか。

 

 デビルマン級に酷い等々の、散々な巷での評価を聞きつけまして「ならば、テンペスト3D*1を見て、映画館で悶絶した経験から、ネット上に映画の評価を書き込むようになった、自分としては見ないわけには行かないなぁ」と思いまして、見に行きました。

 「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー

 最近、妙に日本のゲーム業界が「映画化、映画化」と活気づいていますが、本作もまさにその活気の一つに数えられると思います。なにせ、あの大御所ファンタジーRPGドラゴンクエストが――しかも、その中でもストーリーが特に濃いとされているドラゴンクエストⅤが、こうして映画という形になっているのですから。

 

 

 ただし、このゲーム業界の"活気"ですが――正直、映画ファンからの評判はそこまで良くはないです。当ブログでも、感想記事を書いた「名探偵ピカチュウ」などを筆頭に、全体的に「あれ?」と言いたくなってしまう出来の映画が多いのは事実です。

 そして、本作「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」も案の定、巷の評判はよくありません。いえ、それどころか、「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」はこのゲームコンテンツ映画化の波の中でも、最も評判が悪い映画です。

 デビルマン級――という形容がついてしまっているあたりからして、その評判の悪さが伺えるでしょう。

 

 前置きが長くなってしまいましたが、自分が鑑賞した感想を述べたいと思います。

 

 デビルマン級は明らかに言い過ぎですね。

 デビルマンを見たことがないくせに、いい加減なことを言っている人たちが、こんなにもいるとは困ったものです。デビルマンは本作より遥かに酷いです。

 ただ、面白くないのも事実ではあります。

 クソ映画と言うほどではないけれども、面白くもない映画だとは確実に言える――そんな出来の映画が、本作になっております。

 

 なぜ、そんな出来の映画になっているかというと……巷では、この映画の、しょーもなさすぎるメタ展開について、いろんな人からの酷評が見受けられますが、正直、そこの部分だけが問題というわけでもないのです。

 

 メタ展開自体は、上手く使えばそこまで大きな問題にはなりません。例えば、レゴを題材にした映画で「レゴザ・ムービー」という子供向けの映画がありますが、こちらでも、メタ展開というのは普通にありました。

「レゴザ・ムービー」は伏線すら貼っていないまま、急にメタ展開に入るため、扱い方としては、下手すれば「ドラクエよりも酷い」と言われてしまいそうです。*2

 それでも、レゴザ・ムービーのメタ展開を悪しざまに言う人はそこまでいません。

 

 つまり、メタ展開になった事自体や、そこに対する伏線を与えたこと自体が問題なわけではないのです。

 では、本作は何が問題なのでしょうか。

 それは、この映画の最初から最後まで延々と存在している問題であり、同時に山崎貴監督作品に、毎回のように見られる問題でもあるのですが「一貫性のなさ」が問題なのです。

 

 端的に言ってしまえば「いや、お前、さっきまで『大人になれ』って話なんか、一瞬もしてなかったじゃん……」ということです。

 

 

 例えば、本作のリュカが「息子が生まれているにも関わらず、ずっとパパスのことばかりを考えていて、息子のことなど知らん顔している。息子を育てる気が全然ない」というような描写を入れていれば、「大人になれ」というメッセージにそれなりの説得力が出たことでしょう。

 あるいは、メタ展開にするだけの理由があるテーマを提示出来れば、それもありです。前述の「レゴザ・ムービー」はまさにその、メタ展開にするだけのテーマを提示することが出来ていました。

 

 が、しかし、本作はそんな「大人になる」というテーマに合わせて物語を整える――などの工夫など、ちっともやっておらず、ただただ、最後に急に「大人になれよ。それはともかくとして、ゲームって偉大だね」と言い出しているだけなのです。

 それくらいに一貫性がなく、ようは作り手が、このドラクエという話の何を魅力に感じているのかサッパリ分からないのです。映画に限らず、エンターテイメントにおいて、この「自分がとりあげようという題材に対して、自分が魅力に感じるポイントへの注力」というのは、とても大事なことです。

 

 その「魅力に感じるポイント」を、絶対、他の人にも感じてほしいと思って、様々な工夫や、演出の緩急をつけ――そして、それらによって、観客が言葉では伝えきれないはずの、その魅力と感じた感情や、感慨や、尊さを共鳴して感じれるからこそ、エンターテイメントに痺れるほどの感動や、胸を掻き毟りたくなるほどの価値が生まれるのです。

 

 そして、この映画は――というより、山崎貴監督には、毎回「この物語にある、この魅力を絶対に観客に伝えたい!」という一貫性が、なんだか無いのです。自分の好きな映画の場面や、設定や、お話を真似して、部分的に撮ったら、それで満足してしまうのです。

 本作、ドラゴンクエストも、全編に渡って「ドラクエ5という長い物語の、どこを重点的に描きたかったのか」がサッパリ分かりません。ほとんどのシーンや演出、全てが等間隔で区切られ、時間の進み方に緩急がつくこともなく、ただただ、だーっとダイジェストしていくばかりではないですか。

 

 その上で、あんな唐突に「大人になれ」などと、それまでしてもいなかった話を急に始めたら――そりゃあ、色んな人から反発も食らいますよ。

*1:おそらく、邦画において数少ない、デビルマンよりも酷い映画の一つです

*2:しかも、レゴザ・ムービーの方も暗に「大人になれよ」と言っているのです。

映画感想:トイ・ストーリー4


「トイ・ストーリー4」日本版予告

※今回はネタバレを結構している感想になります。

 

 恒例の手短な感想から

意外なオチでもないし、普通に面白かった

 といったところでしょうか。



 いきなり、真っ向から巷の評判を覆すようなことを書きますが、本作、「トイ・ストーリー4」を意外なオチだとか、今までとは違う作品であるというような感じ方をするのは、かなりおかしいです。

 まず「意外なオチ」という点についてですが、いくらなんでもこの内容で、ウッディが外の世界に残っていくオチになることについて「意外だ!」と感じてしまうのは、受け取る側の方の問題かと思います。

 

 この映画の冒頭に、わざわざ過去の回想という形で「ボー・ピープと別れることになったウッディがボー・ピープについていこうと、箱に入ろうと一瞬決断する」シーンが入れられている時点で、どう読み取っても、この映画は「それがテーマの映画」でしょう。

 はっきり言ってしまって、この映画の作り手たちは最初からフォーキーやボニーことなど、どうでもよく、ウッディのことしかテーマにする気がないのです。

 

 そして、エンタメ映画の定形で言ってしまえば「冒頭で事情があって添い遂げられなかったカップル」のシーンがあったら、普通、「じゃあ、オチで何らかの形でカップルが添い遂げるんだろうな」と思うはずです。

 

 また、冒頭に限らず、映画本編中でも再会したボー・ピープとウッディが惹かれ合っていく様子を、しつこいくらいに何度も描写し、様々な登場人物の口から「外の世界がいかに素晴らしいか」という話を語らせているのです。ならば「作り手たちは、そういうオチにしたいんだなぁ」と読み取れて当然ではないでしょうか。

 

 なので、この映画のオチは意外でもなければ、なんでもありません。むしろ、この手の映画としては、驚くほどに普通のオチに収まったといって過言ではありません。

 

 意外に感じてしまう人がいるのは、これほどの描写を入れてもなお、受け取る側が頑固な思い込みで縛られてしまっているのではないでしょうか。

 あるいは自分がぬいぐるみやおもちゃ好きであるために、「何が何でも、そう合って欲しくない」という強い思いがあるか、のいずれかでしょう。

 

 巷では、この映画のオチを「今までのトイ・ストーリーを否定する話」と受け取っている人も多いようですから。

 

 

 しかし、自分からすると、その受け取り方もまたおかしいと思うのです。本作の一体、どこが「今までのトイ・ストーリーを否定している」というのでしょうか。むしろ、今までのトイ・ストーリーが言っていた「子どもに愛されることはおもちゃの幸せ」という幻想を強固なまでに守ったようにしか見えませんが……。

 

「だって、ウッディがボニーのもとから離れてしまったじゃないか」と思っているのでしょうが、冷静に考えてください。ボニーは別にウッディのことを、好きでも何でもありません。というか、劇中ではっきり示されていないだけで、ほぼボニーにとって、ウッディはただのゴミです。

「ゴミのフォーキーは、ボニーが必要としているから玩具になった」という事実は裏を返せば「玩具だけどボニーが必要としてないウッディは、ゴミである」という事実になります。

 

 僕から言わせれば、あのままウッディがボニーのもとに戻る展開にした方が、よっぽど「今までのトイ・ストーリーを否定する」ヤバい映画が完成していたと思います。

 

 なぜなら、映画中のウッディは、別にボニーに再び気に入られるようなことを何一つしていませんから、あのままボニーのもとへ戻れば、やはりクローゼットの中で押し込まれっぱなしで終わりです。

 

 そうして、観客たちに薄々と「ゴミから作り上げられ、おもちゃになっていくフォーキー」「おもちゃだったはずなのに、役割を失い、だんだんゴミとして扱われていくウッディ」という姿の二つの皮肉げな姿を想像させてEND――という、そんなヤバ過ぎるオチになったはずです。*1

 

 それと比べて、なんとこの映画は「トイ・ストーリーの幻想」を健気に守っていることでしょう。この映画のオチならば、ウッディは「愛されなくなったから、別の愛してくれる子どもを探しに行った」とも取れますし、実際、エンドロールでもウッディはおもちゃたちが子供の手に行き渡るように奮闘している姿が描かれているので、「子どもに愛されることはおもちゃの幸せ」という価値観の否定なんてまったくしていないわけです。

 

 だからこそ、自分としては「普通の、面白い映画だったなぁ」というのが、本作への感想になります。

 若干オタク臭いパロディギャグはもちろん、全体的に人形ホラー映画へのオマージュも見られるあたりもなかなか良かったですし、玩具たちのロマンスをギャグ抜きで、エロティックに感じられるものに演出しようと様々な工夫を凝らしているのも面白かったです。



 別に意外な作品でも、衝撃的な作品でも、なんでもありません。

 本作は普通の内容です。

 

 

*1:というか、ゴミから出来たフォーキーの存在を鑑みるに「最初は、そういうオチにするつもりで、作っていたけど、さすがに子どもに見せるのは、残酷すぎてやめた」のではないでしょうか?

映画感想:凪待ち


映画『凪待ち』予告(30秒)

 

 恒例の手短な感想から

僕らは既にあの波に飲み込まれている

 といったところでしょうか。



 本作、「凪待ち」は元SMAP改め、新しい地図香取慎吾が主演を務めている作品で、なおかつ、本ブログで絶賛した「日本で一番悪い奴ら」の白石和彌監督の最新作です。

 白石監督は非常に多作な監督であり、また必ずしも毎回良い映画を確実に撮ってくるタイプの監督ではないため、基本、自分は評判の良さそうな作品が公開されているのが偶然目についたら、見に行くというスタンスで鑑賞しているのですが……今回はいろんな人の評判を聞くかぎり、鑑賞して損のない内容らしいので、鑑賞いたしました。

 

 感想としては、想像以上に一昔前の純文学的な、芸術映画と捉えることも出来る映画だなぁというのが自分の感想になります。端的に言ってしまって、とても感想に困る映画といって良いです。

 

 決して悪い映画だから、感想に困っている訳ではないのです。本作は良い映画であることは間違いないでしょう。ただ、同時にいろいろと困惑する内容でもあるのです。

 これは自分に限らず、鑑賞された人のだいたいが感じたのではないでしょうか。

 

 なにせ、本作、普通の映画からすると、描写を集中させるポイントが随分とズレていますから。ほとんど、香取慎吾演じる主人公が、競輪で賭け事をしているシーンになぜかやたらと重きが置かれており、本筋であるはずの殺人事件の話は、謎解きも、サスペンスも、解決も、一応あることはあるのですが、やたらに薄く描かれています。

 言ってしまえば、本作は話の主軸であるはずの殺人事件を描く気がないのです。むしろ、そういった事件に影響され、登場人物たちの心がぐちゃぐちゃと変わっていくさまを描くことに注視しています。

 例えるならば、本作はチェーホフの演劇のようなものだと言っていいです。

 チェーホフは、様々な問題を抱えた人間のみっともなかったりする面や、人間の感情が時として不条理に移り変わっていく姿や、なんだか中二病じみてて滑稽な姿等々、現実の人間のおかしいすがたをそのまま描いていくことで喜劇としていましたが、本作もそれに近いのです。

 

 ただし、本作は喜劇ではなく、あくまで、感動話の映画にしているのですが。

 本作の主人公は、当人も自認しているように、ギャンブル依存症を患っているわりとクズな男です。

 そんな男のクズなりに、内縁の妻のことで悩み、内縁の妻が連れる娘のことを考えてみたり、反省したり、それらを経ても、なおギャンブルから抜け出せず、どうしてもギャンブルをやってしまう姿を描いているのが本作なのです。

 

 そういう男をあくまで現実的な範囲で描いているので、普通のエンターテイメントからすれば随分とズレた「え? これ解決してるのか?」と首を傾げるような、なんだかふわふわとした物語の着地を本作はしてしまうのですが、それも仕方のないことなのです。

 

 現実とは、物語のように上手くいかないものですし、そして、同時に物語よりも拍子抜けするほど上手くいってしまうものだからです。そういった「上手くいく、上手くいかない」という塩梅の滅茶苦茶さこそが、現実なのです。現実には、そういった不条理さがあります。

 

 その不条理さに誰であろうと必ず飲み込まれていくのが、人間なのだとこの映画はそう言いたいのでしょう。であるからこそ、この物語の舞台はあの津波という不条理に飲み込まれた町となっており、エンドロールで「いかに何もかもが飲み込まれているか」を見せつけたのです。

 

 ただ、勘違いしないでいただきたいのは、この映画の言いたい「現実の不条理」とは、不幸一辺倒のことではないのです。前述したとおり「拍子抜けするほど、話が上手くいくこと自体もまた不条理の中にあること」なのです。

 だからこそ、この映画は拍子抜けするほど、なんだか幸福に終わってしまうのではないでしょうか。

 

 

映画感想:ホットギミック ガールミーツボーイ


新時代の青春恋愛映画誕生。 映画『ホットギミック ガールミーツボーイ』本予告/6月28日(金)公開

 恒例の手短な感想から

困ったなぁ……ピンと来ない

 といったところでしょうか。



 個人的にこんなに感想に困る映画もない、というのが正直な自分の感想になります。

 おそらく、検索によって当ブログにたどり着いた方は、冒頭のこの一文があるだけで「お前は分かってない」と一笑に付し、山戸結希監督のことをまるで分かってないやつだと思われることかと思います。

 が、それでも、自分がそういう感想を抱き、とても困っているのは大きな事実ですので、ちゃんとそう記しておきたいと思います。本作は世間的な評価も高く、なおかつ自分もかつて、とても高く評価したことがある、山戸結希監督の最新作です。

 ですが、自分には、とても本作は困る映画だったのです。

 

 これほど自分にとっては、どうでもいい映画はありませんでした。主人公、話の筋書き、描写、演出の全てに対して「あぁ、そこそこはよく出来ているね。でも、なんか、どーでもいいやー」という腑抜けた感想しか出てこないのです。

 

 

 なぜそう思ってしまったのか、今回の感想記事では、そこを掘り下げていきたいと思います。

 

 まず、これは作り手があえてそのように描写しているせいもあるのですが、この作品、あまりにも世界観が狭いのです。

 基本的に、主人公たちが住んでいるマンションの中で、物語が進行していくように作られており、なおかつ、舞台となるマンションは、四方を囲むような構造となっています。しかも、マンションは、鉄格子のような、まるで刑務所かと錯覚するような画一的なデザインになっています。

 

 それらを舞台にした上で、なおかつ、演じる役者たちも基本的には顔のみを大写しするようなカメラワークを多用し、背景はなるべく映さないようにしています。まるで、登場人物以外の世界など存在しないのだ、とでも言うかのように。

 登場人物たちの描写も、メインである思春期の男女のみにフォーカスが絞られており、例えば主人公の初の親や、亮輝の親などはほとんど存在していないも同然のものとして扱われています。

 そして、トドメとばかりに、執拗なほど何度も何度も、繰り返し繰り返し、同じ場所の、同じロケーションを用いてシーンを作っているのです。何度もあのマンションの階段と、広場のベンチと、渋谷の109ばかりを映し続けているのです。

 

 極端な話、ここまで執拗に世界観を狭くしようとしている映画は、特異といって過言ではないでしょう。いえ、特異という言い方は優しすぎますね。異常という言い方が正しいでしょう。

 この映画のオチが安っぽいセカイ系SFのような、「このマンションの外から全てが存在しませんでした」というオチであったとしても、まったく違和感はないほどの描写ばかりが詰め込まれているのですから。

 

 

 そうして、そんな極度なほどに狭い世界観をベースとして構築された作品の中で、繰り広げられる、思春期の恋愛話が本作なのですが――はっきり言って、このセカイ系の恋愛というシチュエーションに、自分はあまりにも価値というものを見いだせないのです。

 ましてや、女性の価値だの、自分の価値だの、そういう話をしたい物語であるならばなおのことです。

 

 狭い世界を構築し、自分以外をなるべく映さないようにした世界の中で「自分が大事」「私は私でいる」なんて言うのは、それはとても簡単なことでしょう。そもそも自分しか居ないのですから。

 

 

 そして、自分にはこの作品の主張というものが、どうしても薄っぺらいものに見えるのです。

 果たして、この作品の作り手が問いたかった「自分」とは、そんな自分だったのでしょうか。とてもそうは思えないのですが……。

6月に見た映画

くるみ割り人形と秘密の王国

 ・麒麟の翼

麒麟の翼~劇場版・新参者~ 通常版 [DVD]

麒麟の翼~劇場版・新参者~ 通常版 [DVD]

 

・ ゴジラ キングオブモンスターズ


ゴジラ、キングギドラ、モスラ、ラドン…4大怪獣の壮絶バトルシーン解禁 映画『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』最新版予告

・アラジン


「アラジン」本予告編

・プロメア


映画『プロメア』本予告 制作:TRIGGER  5月24日〈金〉全国公開

・ファイティング・ダディ 怒りの除雪車

イングリッドとロラ 犯罪との戦い

・雪の日

雪の日
 

 

 

以上、8本になります。

 

 いやー、麒麟の翼、評判に反して、かなりひどい映画ですね。後半、メイン登場人物がゲストキャラを大上段から説教するシーンが延々と続く構成なのも相当ひどいですが、なにより酷いのは、この映画の倫理観でしょう。

 

 殺人の嫌疑をかけられていた”可哀想な被害者”ということに、映画上ではなっていた人――直接人を殺していなかったけど、結局、間接的には人を殺してますよね。普通、金銭事情が悪かったとはいえ、目の前に死にかけている人がいる状況で「あ、そうだ。財布を奪おう!」とはならないでしょう。

 そして、なにより、結局会社の隠蔽体質問題は一切解決していません。それで「めでたし、めでたし」とは普通ならないでしょう。テレビ業界自体が、隠蔽体質だから、この点を解決する必要性を映画を作っている誰もが感じなかったのかもしれませんが、はっきり言って異常です。

映画感想:プロメア


映画『プロメア』本予告 制作:TRIGGER  5月24日〈金〉全国公開

 恒例の手短な感想から

いかにもオタクコンテンツ

 といったところでしょうか



 良くも悪くも、いかにも昔のオタクコンテンツというのが、本作に対する的確な感想ではないかと思います。

 ただ、アニメであるとか、美少女が出ているとか、そういった面だけでなく、内容の突拍子の無さと、妙なハードSF要素、王道を微妙に外れるストーリー展開ーーなによりも全体的に漂う「変なことをやることを目的として」作品が作られている感じが、まさにエヴァ以降の「昔のオタクが匂わせていたあの感じ」という臭いを感じさせる作品になっています。

 表現としては汚い表現になりますが、言うなれば、この作品からは、ほんのりイカ臭い汗が染み込んでいるのが見て取れるのです。

 本作、作っている会社があのトリガーで、しかも、今石監督の作品なので、当然といえば、当然なのかもしれませんが……ともかくとして、本作がそういう意味で人を選ぶ作品であることは当然のことでしょう。

 

 特に序盤は、毎カット、視点が移動し続けるカメラ、なんともアクの強いキャラクターたち、オシャレとはとても言えないグラフィティ調のフォント、金田伊功的なあの独特な動きのアニメーションと、トゥーンシェードのCG、それぞれが画面内に同居して、異常に画面がごちゃごちゃしています。

 この忙しなさは、正直、自分も「ちょっと、このヘンテコテンションを二時間やられるのは、キツいなー」と思うほどでした。



 その序盤の忙しすぎる山場を超えれば、画面は落ち着き、緩やかにストーリーを描いていきますので、序盤を辛抱できるならば、この映画は最後まで見ても良いのではないかと思います。

 序盤の後に展開されるストーリーは、なかなかに見どころがあり、山あり谷ありで面白い流れが展開されていきますから。

 

 特にバーニッシュと呼ばれる、不思議な人間たちと、そのバーニッシュの火災を食い止めんとする主人公たちの攻防や、互いに一枚岩ではなく、内部でも様々な軋轢や葛藤がある姿は、たとえ荒唐無稽な話といえども、感情移入できるものがあります。

 巷では、本作の設定に「とある漫画からの盗作なのではないか」との疑惑も持ち上がっているようですが、”それはそれ、これはこれ”です。

「盗作だから、面白い中身が急につまらなくなる」ということは勿論なく「盗作だろうと完全オリジナルだろうと面白ければ面白いし、つまらなければつまらない」わけで、本作が面白いストーリーであることは事実でしょう。*1作り手が許されるかどうかは別として、自分たち受け手が楽しむ分には罪はないわけです。

 

 

 基本的に怒涛の勢いで、話が展開していくこともあって、見ていて欠伸が出ることなどもありませんし、冷静に考えたら不自然な細かいアラも上手く誤魔化しているため、白けることもないのです。

 決して、天井を抜けるほど面白いことはないのですが、ポップコーンを片手に満足する分には、十分すぎるほどの映画です。払った値段から損することは絶対にないでしょう。

*1:ちなみに、余談ですが、本作の設定ーー確かに噂になっている、件の漫画の設定にも似ているなあと思うのですが、実際の本編を見てみるとそれ以上に、かなり「クラウ ファントム・メモリー」というアニメ作品に似ています。バーニッシュと炎の関係性が、ほとんどリナサピエンとリナクスの関係と一緒だったり、プロメアの舞台がプロメポリスなのに対し、クラウの舞台はメトロポリスだったり、プロメアでバーニッシュをエネルギーとして活用しようとするフォーサイト財団に対して、クラウにはリナクスをエネルギー資源として活用しようとしているGPOがいたりと、ほぼ本作はトリガー版クラウ ファントムメモリーです

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