映画感想:ホットギミック ガールミーツボーイ
新時代の青春恋愛映画誕生。 映画『ホットギミック ガールミーツボーイ』本予告/6月28日(金)公開
恒例の手短な感想から
困ったなぁ……ピンと来ない
といったところでしょうか。
個人的にこんなに感想に困る映画もない、というのが正直な自分の感想になります。
おそらく、検索によって当ブログにたどり着いた方は、冒頭のこの一文があるだけで「お前は分かってない」と一笑に付し、山戸結希監督のことをまるで分かってないやつだと思われることかと思います。
が、それでも、自分がそういう感想を抱き、とても困っているのは大きな事実ですので、ちゃんとそう記しておきたいと思います。本作は世間的な評価も高く、なおかつ自分もかつて、とても高く評価したことがある、山戸結希監督の最新作です。
ですが、自分には、とても本作は困る映画だったのです。
これほど自分にとっては、どうでもいい映画はありませんでした。主人公、話の筋書き、描写、演出の全てに対して「あぁ、そこそこはよく出来ているね。でも、なんか、どーでもいいやー」という腑抜けた感想しか出てこないのです。
なぜそう思ってしまったのか、今回の感想記事では、そこを掘り下げていきたいと思います。
まず、これは作り手があえてそのように描写しているせいもあるのですが、この作品、あまりにも世界観が狭いのです。
基本的に、主人公たちが住んでいるマンションの中で、物語が進行していくように作られており、なおかつ、舞台となるマンションは、四方を囲むような構造となっています。しかも、マンションは、鉄格子のような、まるで刑務所かと錯覚するような画一的なデザインになっています。
それらを舞台にした上で、なおかつ、演じる役者たちも基本的には顔のみを大写しするようなカメラワークを多用し、背景はなるべく映さないようにしています。まるで、登場人物以外の世界など存在しないのだ、とでも言うかのように。
登場人物たちの描写も、メインである思春期の男女のみにフォーカスが絞られており、例えば主人公の初の親や、亮輝の親などはほとんど存在していないも同然のものとして扱われています。
そして、トドメとばかりに、執拗なほど何度も何度も、繰り返し繰り返し、同じ場所の、同じロケーションを用いてシーンを作っているのです。何度もあのマンションの階段と、広場のベンチと、渋谷の109ばかりを映し続けているのです。
極端な話、ここまで執拗に世界観を狭くしようとしている映画は、特異といって過言ではないでしょう。いえ、特異という言い方は優しすぎますね。異常という言い方が正しいでしょう。
この映画のオチが安っぽいセカイ系SFのような、「このマンションの外から全てが存在しませんでした」というオチであったとしても、まったく違和感はないほどの描写ばかりが詰め込まれているのですから。
そうして、そんな極度なほどに狭い世界観をベースとして構築された作品の中で、繰り広げられる、思春期の恋愛話が本作なのですが――はっきり言って、このセカイ系の恋愛というシチュエーションに、自分はあまりにも価値というものを見いだせないのです。
ましてや、女性の価値だの、自分の価値だの、そういう話をしたい物語であるならばなおのことです。
狭い世界を構築し、自分以外をなるべく映さないようにした世界の中で「自分が大事」「私は私でいる」なんて言うのは、それはとても簡単なことでしょう。そもそも自分しか居ないのですから。
そして、自分にはこの作品の主張というものが、どうしても薄っぺらいものに見えるのです。
果たして、この作品の作り手が問いたかった「自分」とは、そんな自分だったのでしょうか。とてもそうは思えないのですが……。