雑記:最近の政治情勢で評価が変わった映画2
少し前に自分はこんな記事を書いたことがありました。
まあ、ようするに「自分の心理状態の変化とか、政治思想の変化とか、周りの状況の変化とかはともかくとして、”事実がハッキリした”ことで評価を変えなきゃいけない映画ってあるよね」という話をしているだけの記事なのですが……。
自分は最近、また、そういう文脈で評価を変えなければいけない映画があることに気づいてしまいました。
というわけで、今回はこの記事の第二弾となります。
さて、今回、評価を変えなければいけない映画とは、コチラになります。
パディントン
もともと、この映画はかなり嫌いで、原作のパディントンの雰囲気をぶち壊す銃撃アクションやら、支離滅裂で唐突すぎるキスシーンやら、この映画が世の中ではそれなりに評価されているのが信じられなくなるほどに酷い出来の映画なのですが……。
最近、自分はこの映画の評価を更に下げるべきではないのか、と感じているのです。
この映画には、感想記事を書いたときから「個人的にはおかしい気がするけど、自分の思い込みかもしれないからなぁ……」と、わざと見逃して減点評価に加えなかったポイントがありました。
それはパディントンの最後の締めです。
この映画、パディントンが最後、どんなことを言って締めるのか知っていますか?
「僕はロンドンが大好きだ。ロンドンの人たちは親切だ。ロンドンは親切な暖かい街だ」
実はパディントンは、そんな趣旨のことを言ってこの映画を締めるのです。ロンドンが暖かい街……この表現に、僕はとてつもなく大きな違和感を感じました。
当然の話です。少しでも、マトモにロンドンが舞台の作品を鑑賞したことがある人ならば、ロンドンと言えば「霧の煙る中、切り裂きジャックが暗躍する、心理も物理も冷たい街」というのが、普通のイメージだからです。
さらに言えば、パディントン公開当時から、イギリスが経済的に相当ヤバい状況であるらしい*1ことは、海を超えて伝わってきていましたから、なおのこと、暖かい街という表現に「本当にそうなのか……?」と疑問を感じられずには居られなかったのです。
そして、僕のこの違和感は違和感でも何でもなく、ただの事実であったことを今は痛感しています。真実として存在していたロンドンの姿は、やはり、僕が考えたとおりの冷たい街でした。
この映画、見てきました。
やはり、イギリスは経済的にかなりの難所を迎えているようです。政府や銀行が貸し出しの緩和や、お金の発行や、お金のバラマキや、事業の支援などを行わず、税制などを厳しくする"緊縮財政"によって、弱者は切り捨てられていく現実が存在しているようです。
ケン・ローチ監督の「わたしは、ダニエル・ブレイク」自体は、ニューカスルが舞台ですが、登場人物の中には、ロンドンで暮らせなくなって仕方なく、ニューカスルにやってきた親子も登場しています。つまり、ロンドンも、そういう点ではニューカスルと変わらないのです。
であるならば、パディントンの評価は下げるしかありません。
「ロンドンは暖かい街だ」――そんな大嘘をパディントンに言わせるなんて行為として醜すぎるでしょう。ちょっと前から、日本の「日本は凄い」系の番組が気持ち悪いと批判する人は多いですが、僕から言わせれば、パディントンの「ロンドンは暖かい街だ」はそれ以上に気持ちが悪いです。
しかも、そんな映画が平然と評価されてしまっている現状を鑑みると、禍根が深すぎると言わざるをえません。現実として、弱者を切り捨てるような、心底から酷い社会システムを構築し、それに加担する傍らで、映画上だけは「自分たちは優しくて、素晴らしい」と架空のキャラクターに褒めそやさせてご満悦とは、なんて酷い構図でしょうか。
だからこそ、自分はパディントンの評価を下げざるをえないのです。
ハッキリ言います。
パディントンは、クソ映画だ。
映画感想:モアナと伝説の海
恒例の手短な感想から
冒険心をくすぐる、傑作!
といったところでしょうか。
いつ頃くらいだったでしょうか。確か「アーロと少年」に同時上映としてくっついてきた短編映画を見たあたりくらいから、だったと思います。なんとなく、ディズニー/ピクサー作品のデザインセンスが、任天堂のゲームのデザインセンスに似てきているなぁ、と感じ始めたのは。
なんとなくですが、ディズニーは今までの剣と魔法のファンタジーを卒業しはじめ、欧米的ではないファンタジー――つまり、民俗的な神話のファンタジー要素を取り込み始めているのではないかと。その結果、任天堂などが描いてきたファンタジーに近いものを作り始めているのではないか、と。
自分はそう思ってきたのです。
そう思っていたのは間違いではありませんでした。
本作、「モアナと伝説の海」はこの上なく、民俗的な神話のファンタジーを取り入れた一作となっています。いえ、むしろ、それがようやく結実した一作と言うべきかもしれません。
苔むした遺跡や、深海のダンジョン、物語のきっかけを与える太鼓の音――まるで「ゼルダの伝説 風のタクト」のような、大海原を旅する冒険譚がそこにはあったのです。
大昔から伝えられている伝説から生まれた呪いが、主人公たちの村に襲いかかり、その呪いを解く旅路に向かう、一族の長の子息――物語のあらすじ自体は、ロード・オブ・ザ・リングなどに代表される典型的な『行きて帰りし物語』ですが、今作は、あれらの北欧神話などの神話とは、明らかに違う神話を取り込んでいます。
それはマウイなどの登場人物の名前が示すとおり、ハワイに伝わる神話です。*1
であるからこそ、本作は、任天堂的なデザインセンスであると同時に、実は日本のあるアニメ映画と非常に近い内容になっています。
それは、もののけ姫です。
もののけ姫は行きて帰りし物語のフォーマットに、日本の民俗的な神話を取り入れた一作でした。本作と、コンセプトとしては、かなり近いものを持っています。
実際、この映画は様々な箇所で「あーこれ、もののけ姫を意識してるんだなぁ」と感じられるものが登場していますし、映画の作り手たちもコンセプト的に本作が近いことを自覚しているのでしょう。*2
ディズニーは、去年、実写の「ジャングルブック」でも、もののけ姫の真似をしており、そちらはこのブログでは酷評しているのですが、本作の「もののけ姫」オマージュはまったく気になりませんでした。おそらく、本作はちゃんと「一神教的ではない神」が描かれているからでしょう。
今までのディズニーは、この「一神教的ではない神」の感覚をなかなか取り入れることが出来ず、苦戦してきました。それは今までの短編映画を見ても明らかなことです。ハワイの火山島を擬人化させた短編やら、上記のジャングルブックやら「本当に分かってないんだなぁ……」と言わざるをえない描き方をしがちでした。
それがようやく、この映画で結実したと言えるでしょう。
つまり、
民俗的な神話と、大海原を舞台にした大冒険。
この二つこそが、この映画の本質なのです。
マッドマックスやゴジラへのオマージュが――世間ではここをやたらクローズアップして騒いでいるきらいがありますが――もちろん、ジョークとしては面白いのですが――この映画の魅力なわけでも、面白さなわけでも、本質なわけでもないのです。*3
傑作短編「ひな鳥の冒険」から、ここまで心浮き立つ冒険譚に話を膨らませられたことは、本当に素晴らしいと思います。
雑記:カレル・ゼマン鑑賞マラソン「個人的なカレル・ゼマンおすすめ作品」
月間の鑑賞作品を定期報告する記事を読んでいる人ならば、とっくに分かっていることと思いますが、実は、1月くらいから、ずっとアニメーション系の映像作家であるカレル・ゼマンの作品を見まくっていました。
以下が、鑑賞作品になります。
・クラバート
・悪魔の発明
・ほら男爵の冒険
・鳥の島の財宝
・彗星に乗って
・ホンジークとマジェンカ
・前世紀探検
・狂気のクロニクル
以上、9作品です。カレル・ゼマンが撮った長編作品は、だいたい見てきました。(「千夜一夜物語」と、「盗まれた飛行船」は、入手するのが面倒臭すぎる&結構お高くつくのでやめました)鑑賞した理由としては、まあ「なんとなく見たくなったから」なのですが……。
せっかく多くの作品を鑑賞したのですから、個人的に「これ、面白かったよ」というものをリストにしてみました。
こちらです。
・彗星に乗って
・ホンジークとマジェンカ
・前世紀探検
・ほら男爵の冒険
特に一番のオススメは「ほら男爵の冒険」です。
それぞれの作品を、簡単に紹介していきましょう。
・彗星に乗って
この作品は、ジュール・ヴェルヌの小説「彗星飛行」を原作としている長編作品です。
「彗星が地球に衝突してきたとき、彗星に飛ばされてしまった人々がいて……」という、内容の作品で、全体的に筒井康隆的なSF寓話のテイストがものすごく強い作品となっています。
実際、内容も「日本以外全部沈没」とか、あそこらへんの話を彷彿とさせる部分が多く、バカバカしいアイディアと、わざと形式的に描かれている戦争批判描写などが、楽しい一作で、そういう作品が好きな人ならば、間違いなくハマるでしょう。
・ホンジークとマジェンカ
カレル・ゼマン、最後の長編作品がこちらです。晩期の、子どもの純粋な心というものに価値を見出したカレル・ゼマンが描いた切り絵アニメの一つであり、愛をテーマにした、シンプルな寓話ファンタジーです。
カレル・ゼマンはもう一つ「クラバート」という、宮崎駿が「千と千尋の神隠し」でクライマックスをほぼパクったことで有名な切り絵アニメがあるのですが、個人的には「クラバート」よりも本作のほうが好きです。
なんといっても、僕が思う本作の魅力は「悪役」です。メインの悪役として、とある国の王と王子が出てくるのですが、まー彼らが、"アホの子"で見ていて愉快なんです。
ハチに刺され、治療の包帯でほぼミイラになっている王子と、ハチに刺されたくなくて兜を頭に付けてる王様が、食事しながら喋り合うシーンとか、バカバカしさと不気味さがよく出ていて最高ですよ。
もちろん、本編をそのまま見ても面白いのですが。
・前世紀探検
こちらは逆にカレル・ゼマンのキャリアの中でも、かなり最初の方に位置する実写作品です。「子どもたちが小舟で川を下って、時代を逆行し、昔の地球を探検しにいく」という内容の分かりやすく、子ども向けの一作となっています。
本作の魅力は、なんていうんでしょうね。ディズニーランドのジャングルクルーズ的な面白さというべきでしょうか。それなりにヒヤヒヤしながら……しかし、人死とかそういうものはまったくなく、安心に進んでいく冒険譚の面白さがよく光っている作品です。
しかし、川を下って時間旅行などのシュールなアイディアは、非常にカレル・ゼマンらしく、そういった魅力もよく引き出されている作品でもあります。恐竜たちの様相も当時の恐竜研究から考えると、かなり丁寧に作られており、恐竜映画としても優秀です。
また、本作、イルカという少年を演じている子役が、現代から見ても良い演技をしているんですよね。無邪気というか、子供らしさがよく出ているというか。
・ほら男爵の冒険
言わずもがな、法螺吹き男爵として有名なミュンヒハウゼン男爵を題材に、ジョルジュ・メリエスの月世界旅行やジュール・ヴェルヌなどをオマージュしつつ、描かれたカレル・ゼマン版「ほら吹き男爵の冒険」がこちらになります。
この映画は、個人的にはカレル・ゼマンの諸作品の中でも、一番秀でていると感じた一作です。なにが素晴らしいって、もうオープニングから素晴らしいとしか言い様がないのです。本作「ロケットを使って男が月にやってきたら、なぜか、そこに既に月世界旅行よろしく大砲で月まで打ち上げられた、ほら男爵がいた」という、SFとシュルレアリスムが融合した仰天の始まり方をするのです。
確かに、ガーンズバックやら星新一やらも「ほら吹き男爵の冒険」を題材にしているため、SFとほら吹き男爵の融合は、それなりに普通のことなのですが、カレル・ゼマンはシュールの度合いが違うのです。なにせ、上記の冒頭も「ほら男爵」だけでなく、なぜか大砲クラブの面々やら、シラノ・ド・ベルジュラックまでいる始末……いや、ミュンヒハウゼン男爵とシラノ・ド・ベルジュラック、一瞬も接点ないだろ!……なんて、ツッコミを入れる暇もなく、そこから、次々と雪崩のように展開されていく、良い意味で頭のおかしい映像と物語たち。
腹の底からおかしな笑いが止まらない作品です。実際、この作品の随所で出て来るアニメーションや奇天烈なイマジネーションは、明らかにテリー・ギリアムのアニメーションに影響を与えています。というか、これがテリー・ギリアムの全てと言ってもいいです。
それくらいに強烈にシュールギャグが展開される作品なのです。
しかも、だというのに、この映画は画面の画作りといい、演出といい、妙にカッコイイ場面まであったりするから恐ろしいのです。特に、大量の兵士をミュンヒハウゼン男爵が一掃するシーンは、悪夢のようでいて、しかし、同時にかなり格好良く、ここだけでも見て欲しいと思うくらいです。
こんな感じです。いや、しかし、良い鑑賞マラソンになりました。
2月に見た映画
2月鑑賞作品
・彗星に乗って
・虐殺器官
・ナイスガイズ!
・ホンジークとマジェンカ
・前世紀探検
以上、6本となります。
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2月は、鑑賞本数も記事数もちょっと少なくなってしまいました。まあ、全ては「ニーア オートマタ - PS4」のせいです。このゲームが面白すぎたのが悪いのです。来月からは調子を……戻せるのかなぁ……ゼルダの新作が明日発売されちゃうんですけどねぇ……。とりあえず、頑張ってみます。
あと、カレル・ゼマン鑑賞月間もいよいよ大詰めです。あと残り一作を鑑賞すれば終わりとなります。
映画感想:ラ・ラ・ランド
恒例の手短な感想から
そりゃあ、作品賞取れないのは当然じゃないかと…。
といったところでしょうか。
いやー、困りましたね。こんなに、なんとも微妙な出来の映画になっているとは……。
前評判からすると相当に裏切られた気分としか言いようがないです。一般の人ならともかく、映画に詳しい人が、高い評価を下せるような一作でないことは明らかですから。こんな、”奇抜”という言葉で監督の能力の至らなさを誤魔化したようなものを、平然と評価できる、映画評論家なんてこの世にいるんでしょうか?
……残念ながら、いたわけですけれども。
ともかくとして、本作は出来として微妙です。決して傑作と呼べるような映画ではありません。実際、すったもんだがあったアカデミー賞でも、作品賞は別の作品に奪われていますし……。
なぜ、この映画が微妙だと言い切れるのか。それはもう簡単な話で、ミュージカル映画なのに、肝心のミュージカルやら、タップダンスやら、音楽やらのクオリティが完全に二束三文の代物だからです。
例えば、タップダンスの、目も当てられないクオリティの低さ。
確かに、かつてのミュージカル名画にあったタップダンスのポーズを要所要所で真似たりはしているのです。しかし、それは要所要所のみの話で、全体的には「タップダンスをバカにしてるのか?」と思いたくなるほど、チンタラした地団駄ショーが繰り広げられるだけなのです。
監督はフレッド・アステアとかのタップダンスを見たことないのでしょうか。
そして、劇中で使われる音楽も、まあクオリティが微妙なこと。とりあえず、ジャズにしておけばオシャレで高尚になるんだと言わんばかりの、雑なジャズが延々と流れてくるのです。
音楽もダンスも微妙なミュージカルって、そんなものを一体誰が作品賞にするのか、という話です。
もちろん、僕はこの監督が「セッション」を撮ったデミアン・チャゼルだということは知っています。
ですが、僕から言わせれば「セッション」を撮った人だからこそ、こんなお察しな出来のミュージカルになってしまうのは当然の話しなのです。
そもそも「セッション」自体、音楽のクオリティはびっくりするほど低いです。全編、こまっしゃくれた大学生が作ったような曲が流されているだけでしたから。ただ、セッションの場合は、題材が題材なこともあって、その「こまっしゃくれた大学生が作ったような曲」が、むしろ、相乗効果を生み出しているという状態だったはずです。
ようするにデミアン・チャゼルは、音楽の才能やセンスが皆無だったからこそ、セッションという傑作を撮れたのです。
そんな人が、ミュージカルなんか撮ったらどうなってしまうことか……。
……まあ、どうなったかは、この映画を見れば分かるのですが。
で、ミュージカル部分がダメとなると、あとは映画自体の筋書きはどうなのかという話なわけですが……これも、うーん、あまりよろしくないです。というか、自分がちょっと前に感想記事を上げた映画「ブルーに生まれついて」に半分くらい話が似ているんですよね。
そして、「ブルーに生まれついて」と比べると、本作はなんだか、妙に話が子どもじみています。どの登場人物もとてつもなく、単純というか。ラストの展開も、なんだか子どもくさいです。というか、ハッキリ言いますけど、これ、ほぼやってることは新海誠と同じなのでは……?
ようするに、この映画が言いたい感慨やら、感情やらというものは、すごく大学生の感覚だということです。精神年齢が20~24歳くらいの方だけが、喜びそうな幼稚さで満ち満ちていますし、それが「大人だ」「高尚だ」とこの映画の作り手は思い込んでいるのでしょう。
だから、この映画の全てがクオリティの低いものになってしまっているのです。
「僕、すごく頑張ったし。頑張ったから、ちゃんとやらなくてもいいじゃん」「見た目良さげな感じに仕上がったから、もういいじゃん」という"学生気分"が、作り手にあるから、
ミュージカルのバックダンスが、格好良く揃っていないことや、スローテンポの曲がどれもこれも「Fly me to the moon」のまがい物みたいな曲ばかりに偏ってしまっていることや、タップダンスの肝心のタップ音がまったく聞こえていないことなどを、まったく気にしていないのです。
ライアン・ゴズリングも「ナイスガイズ!」の輝いている演技と比べると、なんか普通ですし、本作、そんなに積極的に観に行かなくていいです。その程度の微妙な映画、なのです。
いやー、これはムーンライトが楽しみですね。
映画感想:ナイスガイズ!
恒例の手短な感想から
続編が今すぐ見たい!
といったところでしょうか。
自分としては本当に久しぶりでした。映画を見ていて「あぁ、この登場人物たち、すごく好きだなぁ」と思えたのは。この映画、ナイスガイズは基本的には非常に良く出来たハードボイルドパロディ・コメディなのですが、しかし、単なるパロディで一笑いして終わりの映画ではないのです。
まず何と言っても、登場人物たち全員がキャラクターとしてよく作り込まれています。敵役から、脇役に至るまで、様々な登場人物がインパクトに残らずをえないほどに、強烈なキャラクターばかりで、しかも、それを演じる役者たちが、まあ、このキャラクターによく似合っていること……。
特にライアン・ゴスリングの、主人公のダメダメ探偵役へのハマリっぷりは今までの彼にあったイメージを覆しかねないほどであり、風貌といい、仕草といい、情けなく裏声の悲鳴を上げるところといい、「ライアン・ゴズリングってコメディ役の方が上手いのか!」と衝撃を受けること間違いないです。
そして、そのドハマリしているライアン・ゴズリングがいるというのに、他の主演二人も負けないくらいに存在感を発揮しているのだから、なんと言っていいのか……。
行き過ぎた暴力正義漢のラッセル・クロウはもちろんのこと、アンガーリー・ライス演じる、主人公の娘もキャラクターとして素晴らしいものでした。
彼女は、例えるなら、カートゥーンの「ガジェット警部」におけるベニー的な役回りの――”ダメダメな中年を裏で支える、少しマセたしっかり者の少女”という、90年代的なキャラクターとなっているのですが――このキャラクターの作り込みが素晴らしくて、見ているコチラは、80年代~90年代によくあった、単純で面白かったサスペンスエンターテイメント映画を思い出してしまうのです。
しかし、この映画はあくまで今の映画です。70年代のアメリカを舞台にしたりしていますが、それを描く視点や、描写の仕方や、話の展開などはキッチリと現代的なエッセンスが効いており、だからこそ、ちゃんと笑える映画になっています。変に白けることがないのです。
映画自体は、主に、陰謀論系のサスペンス映画をパロディにしているのですが、このパロディの方向性が、ある種、ポール・トーマス・アンダーソンの「インヒアレントヴァイス」に近いような視点からのものなので、実は「インヒアレントヴァイス」と比較してみるのも面白い一作かもしれません。
話の筋書きもしっかりしており、コメディであるところを上手く活用しながら、巧みに話を転がしていっています。また、全体的にセリフで過剰に説明するのを避け、なるべく画面で描写するのも上手く、普通にコメディ関係なく、描写の上手さに唸ってしまうところもあります。
その上、意外なところが伏線になっていて、後々で回収されていったり、ちゃんと主人公二人が「人間的に成長したんだ」と思える描写を入れていたりと、全体的に抜け目なく話が構築されており、結構、誰もが問題なく楽しめるエンターテイメントになっています。
おそらく、鑑賞後はスッキリとした気持ちで映画館を後にすることが出来るでしょう。
ここまで曇りなくエンターテイメント然とした映画は、本当に久々です。
いや、本当に続編が作られればいいのに!
映画感想:虐殺器官
恒例の手短な感想から
原作ファンは見ても良いんじゃないかな
といったところでしょうか。
まず、断っておきたいのですが、上記のように「原作ファンは見ても良い」と書きましたが、自分自身は伊藤計劃のファンでもなければ、「虐殺器官」自体も他の人のように崇め奉るような人でもありません。
そういう人の感想ですので、伊藤計劃以後のSFがどうたらこうたらとか、そういう愚にもつかないようなことを、ネットの片隅に書き込んでいるような人たちは、この記事を読まないほうが良いです。信者の人たちが思うような褒め方や貶し方はしないからです。
ただ、そんな自分からしても、本作の「虐殺器官」はそれなりにしっかりしてると感じました。少なくとも、以前、このブログで記事を書いた、「ハーモニー」よりかは遥かにマシです。やたら説明的なセリフが映画の半分を占めるようなこともありませんでしたし、ゼロ年代半ばによくあったリアル志向のアニメ絵も、本編の内容と違和感なく溶け込んでいました。
少し、原作からすると、なんというか、テーマの説明がしつこいような気もしますが。まあ、難しいテーマですし、仕方ないような気もします。
元々、監督の村瀬修功氏自体が、「レゾンデートルがどうだの」「うんたら計画がどうだの」という話から、最終的に漫画版ナウシカみたいな展開になる、エルゴプラクシーというSFアニメを監督するような人ですし、もっと難解にすることも出来たとは思いますが、現状でも及第点ではあるでしょう。
なので、原作ファンは、とりあえず本作を一見していいのではないでしょうか。
ただ……うーん。やはり、原作をそんなにものすごく好きというわけでもない人間から言わせると、映像化したおかげで余計に「やはりこの物語には無理があるよなー」という確信が増してしまったのも事実です。
まず、一つとして、原作を読んだときにも強く感じていたのですが――そして、ハーモニーにも似たような印象を持っているのですが――この物語はなんだかんだ言って珍説披露ショーなんですよね。そして、珍説を結構、安直に会話で説明してしまうので「こんな仮説があるのよ」「そーんな馬ー鹿ーなー」というやり取りが繰り返されたりするところも、如何ともしがたいです。
文字だから許されるだけで、映像として考えると絵面が信じられないほどショボいのです。事実、今回の映画も、前半は結構絵面がショボいです。
なにより、SF畑の人たちがこぞって絶賛する、本作のテーマなのですが……うーん。
個人的には原作を読んだ時点で「世界の真実を暴いた!」とか「我々に新しいビジョンを見せてくれた!」とは、あまり思えませんでした。……これを言うと、色んな人に石を投げられそうですが、伊藤計劃の世界観ってどことなく「純粋で幼い」気がするんですよね。
例えば、ハーモニーの話になりますが、あれって「意識がどうだのこうだの」という話で、いかにも崇高なテーマであるかのように偽装していますが、実質は「”本当の自分”探し」をしているだけの内容ではないでしょうか。
自分という存在にとって、本当の自分であると言い切れるのは、自分が自分だと認識できている、この”意識”だけです。つまり、それを求めようとしただけの――本当の自分を探したかっただけの物語であり、そういう「純粋で幼い世界観」が生み出した物語ではないかと。
同じように、虐殺器官の世界観も「純粋で幼い」ように思います。まず、主役の登場人物たちが、みんな純粋で実直です。虐殺だの、暗殺だの、内戦だのと汚い話をしていますが、それは議題としてそういう問題を扱っているに過ぎず、考え方や思想は常に純粋です。混じり気もなく、素直な人間ばかりが出てくるのです。
なにより、オチ自体も……とても純粋でしょう?
「平和な世界に、一つでも暗い影を落としたくない」という願いは、とても純粋な考えではないでしょうか。そして幼稚です。なぜなら、「暗い影とも上手く付き合っていく」のが大人だからです。それを毛嫌いするだけでは子どもの態度としか言いようがありません。
しかし、登場人物たちは、その可能性を考えることすらしません。むしろ、そんな世界が許せなくなって「逆襲」してしまう始末。とても幼い考え方でしょう。
虐殺器官は図らずも「大人になることを拒絶した子ども」の物語になっているのではないでしょうか。
そして、本作でもそれは現れています。映画の最後で、二人の男は、ある願いを叶えることだけを目指そうとします。彼らはなんの迷いもなく、躊躇いもなく、純粋な気持ちのみに突き動かされていました。
だからこそ、自分にはどうしても、この物語はどこか浮世離れしているように見えるのです。