儘にならぬは浮世の謀り

主に映画の感想を呟くための日記

映画感想:オズ はじまりの戦い


映画『オズ はじまりの戦い』予告編 - YouTube

※大酷評(しかも、ネタバレ全開)ですので、閲覧注意です。

 

 

詳しくレビューする前に、「オズ はじまりの戦い」に対する大まかな感想を言います。

最低。あるいは、とても程度の低い映画だった。

 

では、詳しくレビューしていきます。まず、

一本の映画として完成度が低いと思います。

なぜって、話がまったく練り込まれていないじゃないですか。たとえば、映画の前半、悪役の魔女がいったいなにをしたくてあんな行動しているのかさっぱり謎じゃないですか。なんでオズとグリンダを引きあわせたのでしょうか。なんでグリンダを、映画の後半に発揮される、その高い戦闘力でとっとと殺さなかったのでしょうか。とても不思議です。エヴァノラは、グリンダを普通に魔法でバシッと捕まえてましたけど、それが出来るなら、あんなところでブラブラほっつき歩いてたグリンダなんてあっさり殺せたでしょう。

そもそも「オズの王の娘、グリンダは、エヴァノラに策謀に嵌って、悪い魔女に仕立て上げられてしまっている」という設定の場合、普通、話の展開はこうなるものなんじゃないですか。

ズが台風に飛ばされてやってきた先は、自分と同じ名前の「オズ」という国だった。現実世界で、散々ひどい目に合っていた彼だったが、オズは「オズ」という国の中では予言の大魔法使いということで、歓待される。

待されて、上機嫌のオズ。城の兵隊の愉快な行進に案内され、やってきた先の城には、美人な魔女エヴァノラとゼオドラがいることもあって、女ったらしのオズはなおのこと大喜び。しかも、「城の中を自由に使っていい」とゼオドラから言われたものだから、調子に乗りまくり。勇んで城の中を探索する。

メラルド・シティの美しい装飾や面白い仕掛けの数々。しかし、その一方でエヴァノラはオズが城を歩きまわるようすをやたら監視してくる。不思議に思うオズだが、エヴァノラが自分に惚れているのだろうと思って、オルゴールを見繕って渡す。オルゴールなんてちっとも欲しくないエヴァノラはゼオドラに「オズからのプレゼントだ」と言って、オルゴールを渡してしまう。ゼオドラはうれしそうにそれを受け取る。受け取る妹を見て、眉をひそめる、エヴァノラ。

んな中、夜、オズは目をさました。眠るまでにさんざんゼオドラと遊びまわって、フラフラになってベッドに付いたはずなのに、なぜか、眠っても眠っても目がさめてしまう。オズは額に手を当てながら、城の中をフラフラさまよう。声が聞こえる。どこからか声が聞こえる。城の中のどこか――それはエメラルド・シティの奥深く――まだオズが案内されていなかった、自分の部屋。つまり、オズの国王の間だった。その部屋の壁の向こうから、オズは声を聞く。じっくり。じっくり。じっくりと。と、後ろからエヴァノラが急に肩を叩く。驚くオズ。エヴァノラはオズに対し「そこには悪い魔女が幽閉されているのだ」と言う。オズはその日、納得して帰る。

、やっぱり、次の日も声が気になって眠れない。オズはとうとう、耐えられなくて、悪い魔女が幽閉されているという壁を開けてしまい――その先にいたのは、なんと良い魔女のグリンダだった。オズはグリンダから、本当の真実を聞かされ―

こういう感じの流れになるのが、普通だと思うのですが。

むしろ、この「オズ はじまりの戦い」の筋書きだと、前半と後半で、設定が矛盾しちゃうんですよ。で、実際に矛盾しています。たとえば、後半出てくる魔法のシールドで守られている町に、前半で登場したフライング・モンキーや陶器の少女、ナックはなぜ逃げていなかったのでしょうか。「みんな、エヴァノラに騙されていたから」だとすると、あの街に先に逃げている人たちはなんで逃げていたのでしょうか…?「フライングモンキーや、陶器の国(村)の人々とか、ナックだけ知らなかったんだよ」だとしても、なんでその先に逃げた人たちは知らせなかったんでしょう。おかげで陶器の国(村)の人々が見殺しになっていますが。といった具合に矛盾が生じています。

おそらくは、この矛盾、元々のオズの魔法使いのように「仲間を増やしながら旅をする」というプロットをどうしても組み込みたくて、オズがエヴァノラに頼まれてグリンダを殺しに行くという状況を無理やり作ったために、起こってしまった矛盾なのでしょう。つまり、この映画、その話にしたいためだけに作られた、とくに後先考えていない行き当たりばったりな状況設定ばかりを使うからダメになってしまっているといえます。だから、水の妖精も後半でまったく活かされることなく、ただ出てきただけで終わってしまっていたり、一本の話として甘い箇所が見えてきてしまうのです。

次に、ファンタジーとしてどうかという点。

まず、言えるのは、ファンタジーとしてもこれは微妙と言わざるをえないというところです。この映画に出てくるイメージは、どれもこれも非常につまらない。つまらないというのは、高尚ではないからつまらないとかそういう意味で言っているわけではないです。いえ、むしろ、こういったオズの魔法使いのようなファンタジーでは、子どもじみたような遊び心があったほうがいいです。特に、オズの魔法使いは、そのセンス・オブ・ワンダーがかなり「子どもの遊び」というところに傾いているように思います。

例えば一番わかり易い例でいうと「踏むと死んでしまう砂漠」オズの魔法使の非公式続編「オズ」に登場するこの砂漠なんですが、そんな砂漠なんてとっても危ないですよね。なので、ドロシーは砂漠に足を付けないように、石の上をぴょんぴょん飛んでいくんですね。それも結構楽しそうに。この砂漠の設定、一見残酷そうに見えて、これって実は「子どもの遊び」にはよくあることではないでしょうか。たとえば「道路の白線からはみ出したら死亡」とかそういう遊びをやった記憶がだれにでもあると思います。まさにそういう感覚なんです。(オズの魔法使でも、「黄金の道をずっと辿って行くと、エメラルド・シティにつく」なんて設定がありましたね。そこで、ドロシーはわざわざその道の端からくるくると黄金の道を辿っていくんです。途中からだって黄金の道を辿れるはずなのに。ここも子供の遊びの感覚に近いです)オズの魔法使いにあるファンタジーとは、子どもの遊びのような感覚のファンタジーなんです。陶器の国の人もそうでしょう。あの国は、物の全てがおままごとみたいな小ささでできていいます。あるいは人形遊びの人形に使うミニチュアといってもいいです。どちらにせよ、それは子どもの遊びなんです。

で、そういったところのファンタジー性ですが、とても今回の映画にはそれがあったようには思えませんでした。根本的にどこにも子どもの遊びっぽい、茶目っ気や、楽しさがまったくありません。そもそも、なんだか、どのイメージも見たことあるようなものばかりでした。オープニングの紙芝居調のアニメーションでさえ「なんだかヤン・シュワンクマイエルのアリスの二番煎じみたいだな」と思いましたから。

そして、なぜかは知らないけれど、逆にファンタジーの幻想をぶち壊すような言動をしまくるキャラクターが次々と出てきます。例えばグリンダ。あんなラブコメのヒロインみたいな性格にして――で、ファンタジー感が出ますか? むしろ、幻想ぶち壊しじゃないですか。あんな性格の女性が、ファンタジーで出てきても許されるのは、漫画とラノベヤングアダルト小説くらいです。しかも、グリンダだけじゃなくて「バナナに対するステレオタイプだ」とかいう夢も希望もないような、つまらない大人の言動をするバカな猿とかも出てきますしね。子供向けのファンタジーで、なんで差別感だのなんだのっていうどうでもいいくだらない話題が、出てくるんですか。子どもがそんな会話を楽しむと本気で思ってるんですか?

仮に、それが楽しい会話なんだとしても、オズの魔法使いはそういう作品ではないでしょう。オズの魔法使いのなにが面白いって、ドロシーと各々のキャラクターの会話の奇妙さでしょう。原作なんか、ドロシーがゼオドラを倒して溶かしたとき、溶けていくゼオドラとドロシーが会話してたりしますからね。その会話の奇妙さたるや、本当に読んでいると頭がくらくらしてくるんです。そういう会話の奇妙さが面白い作品なのに、その奇妙さを抜いてどうするんでしょうか。

正直、僕は、フライング・モンキーとか陶器の少女に向かって、

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(引用:藤異秀明真・女神転生デビルチルドレン」第三巻)

 

ってやりたくて仕方なかったですよ。映画見てるあいだじゅうずっと。

そして、オズの魔法使いとして、どうなのかという点。

まあ、前述のとおり、ファンタジー性に関しては落第点なのですが、それ以外の部分でもやっぱりこの作品には問題が多いと思います。まず、原作の小説ではない、映画の「オズの魔法使」をもっとスタッフたちはちゃんと見るべきです。微妙に、昔の「オズの魔法使」と見比べると間違ったことをしているのが分かります。

特に大きく間違っていると思ったのは、モノクロからカラーになるタイミングです。サム・ライミ監督含めた、スタッフたちは明らかに勘違いをしています。それはオズの魔法使では、ドロシーがオズの国に落ちたところでモノクロからカラーに切り替わっていたわけではないということです。正確には違います。正確には、オズの国に家ごと飛ばされて落ちてから、その、家の扉を開けたところでカラーになるんです。これは微妙な差ですが、大きな差でもあります。なぜなら、映像で感じられる感動がまったく変わってしまうからです。たいていの人は、子どもの時、一度は「この家がいつの間にか異世界に飛んでいて、この扉を開けたら、とてもすごい世界が広がっていたりするんじゃないか?」なんて妄想をしたりします。その妄想がある意味叶う瞬間でもあるんですよ。そして、その先が色彩豊かな楽園になっている、寂しいモノクロのようなつまらない日常じゃないカラーの異世界が扉の先で待っている、そこにとてつもなく大きな夢があるじゃないですか。だから、あのシーンに感動を覚えるんです。

でも、その感動が今回はかなり削がれてしまっています。気球なんてまず乗らない乗り物ですし、その上、嵐に遭遇するなんて稀有すぎることだからです。まったく夢がありません。スタッフは「オズの魔法使」をおざなりではなく、しっかりと見なおした上で演出を決めるべきだったと思います。

そして、原作を読んだ上でも、やっぱり、今回の映画には間違っている箇所が存在します。いくつもありますが、特に大きく間違っているのは、陶器の国の人々の扱いです。原作にははっきりと陶器の国の人は、陶器の国から出ると、関節がカチコチになって動けなくなると書いてあるのです。

わたしたちは、この国でまんぞくしてくらしているのよ。すきなように、話しあったり、歩きまわったりしているのよ。ところが、わたしたちはだれでも、もしよその国へつれていかれたりしたら、からだのふしぶしがすぐこわばってしまって、ただまっすぐにつっ立って、美しいすがたを人に見せるだけになってしまうの。(出典:青い鳥文庫 松村達雄訳「オズの魔法使いp350

これはせともののくに――つまり、陶器の国の女王様が原作で言うセリフです。この設定を「オズ はじまりの戦い」は勝手に無視してなかったことにしています。

この設定「オズの魔法使い」という作品自体をある種象徴しているようなとても重要な設定でもあるはずなんです。なぜなら、「オズ」という世界にいるライオンや、ブリキ男や、かかしは、オズという世界でしか生きられない存在ですから。それは、陶器の国の人が陶器の国でしか生きることができないのとまったく同じことです。その上、ドロシーもまた、現実世界では窮屈に、ふしぶしがこわばってしまうような感覚を覚えながら過ごし、オズの国でのびのび、生き生きと生きている少女に他なりません。映画版「オズの魔法使」も、ここの部分をそうとう汲み取ったうえで作られています。

つまり、オズの魔法使いにとって陶器の国は重要な存在なんです。下手にいじるよりは出さないほうがマシであるほどに。そして、なぜか「オズ はじまりの戦い」はこの下手に弄ってはいけない箇所を、わりと無神経になにも考えないまま弄ってしまいました。そのせいで、結果、「オズ はじまりの戦い」で陶器の少女は陶器の国以外で過ごすことになるという、もう、原作を完全に無視したようなオチになってしまっています。

オズの魔法使いとしても、この作品はかなり程度が低いと言わざるをえません。

Was…

正直、なにもかも、酷い出来である(あくまで僕にとっては、ですが)「オズ はじまりの戦い」ですが、僕は正直、これを見るくらいだったら、ジェフ・ライマン「夢の終わりに…(原題:Was…)」を読むことをオススメします。これは、本当の意味での「オズの原点を探っている物語」です。しかも、これ一冊を読むだけで、オズの魔法使にもオズの魔法使いにも詳しくなれます。それくらい、映画版と原作の情報が入っている小説なんです。しかも、本編後に「どこが創作で、どこが事実なのか」を記した「リアリティ・チェック」なる作者のあとがきもあり、かなり参考になることは間違いないです。なにより、話として、この映画とは比べ物にならないほど面白いですし。

最後に、ギリギリあった、この映画の好きなシーン。

・オズが、陶器の少女の足を治すところ

 さすがにここは好きです。というか、僕はこのシーンを見て「ここでこの映画の話が終わっちゃってるじゃねぇか!」と思いました。(このシーンが、オズの現実世界で犯した「罪」にたいする贖罪になってしまっているため)

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