儘にならぬは浮世の謀り

主に映画の感想を呟くための日記

映画感想:かぐや姫の物語


かぐや姫の物語 予告 - YouTube

 

※後半、ネタバレし放題なので、注意。

 

 見終わった今では、かぐや姫の物語の宣伝ポスターを見るだけでも、なにかが沸き起こってきてしまうようで、怖くてポスター見ていません。

それくらい、僕の心にはとても強く響いた物語でした。

 

 高畑監督は見事な竹取物語の解題をやってのけたなという印象です。確かに、大まかな話のあらすじ自体は竹取物語に近いのですが、細かいディテールや、元の「竹取物語には明らかにないセリフやシーン」も書き加えられており、これは高畑監督の解釈した竹取物語と言って差し支えないでしょう。

 

 また、この映画は、レイアウトや美術がどこをとっても素晴らしいです。とても上映時間の長い映画ですが、僕にとってはその「上映時間の長さ」はまったく気になりませんでした。

 話も非常にコンパクトに纏められていると思いますし、なにより、美しい美術にはこれくらいの穏やかな時間が必要だと思うからです。*1音楽も見事なものだと思います。特に僕が白眉と思ったのは、月の使者たちが訪れてくるときに月の使者たちが演奏する音楽です。音響がTHXという環境もあってなのか、とてもクリアに聞こえる明るくて空しい音楽に、大げさでもなんでもなく心を打たれました。ここは作画も、異常なほど力が入っており、神々しささえ感じるほどでした。

 

 映画全体を通じて、非常に暗示的なシーンが多いのも特徴でした。どれも、死と再生を意味するものが多く、かつ通過儀礼的な描写もとても多いと思います。譬えば、かぐや姫が住んでいた里にある橋の描写。かぐや姫*2自分の里へ戻っていく際に、橋を渡るシーンがあり、そして、里から出て行く際には橋を渡るシーンがありません。この「行き」に橋を渡り、「帰り」に橋を渡らない、というのは通過儀礼の暗示です。当たり前ですが、竹取物語にはこのような描写は存在していません。

 

 そして、この暗示的、というのがこの映画ではとても重要だと思います。なぜなら、この数々の”暗示”によって意外にもこの映画が、竹取物語とほぼ同じあらすじであるにもかかわらず、実は内容自体はかなり現代的にアレンジが加えられていることに気づけるからです。

 例えば、かぐや姫が屋敷の庭につくる小さな”ニセモノ”の故郷は、どう考えても「セカイ系」的なものの象徴であるように読み取れますし、かぐや姫に「初潮」が訪れたことを暗に示すところや、全体的にこの話が「男性的なセックスから女性が逃れようとする話であることを強調している」ところなどはフェミニズム的なテーマを感じ取ることが出来ます。僕はここあたりの要素に、聖書を女性視点から改題しなおした、ペネローピ・ファーマーの傑作「イヴの物語」を連想しました。これも、非常にフェミニズム的なテーマのある小説でしたし、確かにこの小説でも*3”セカイ”を作る描写がありました。

 そういえば、タイトルも似ていますね。あちらは聖書をイヴの視点からなぞった「イヴの物語」。こちらは竹取物語かぐや姫の視点からなぞった「かぐや姫の物語」。

 

 さらに、この映画でもう一つ暗示的なのが、「無」です。この映画には「無」という概念がとても多く描かれていると思います。度々、「夢」のシーンが挿入されているところや、5人の貴公子たちに「存在しないもの」を持ってこさせようとする話作り*4、なにより、かぐや姫が自分自身を「ニセモノ」であると嘆くあたりなども非常に「無」を暗示させています。ラストは言うまでもなく「無」です。月の使者たちの姿は"如来"と"菩薩"であり、彼らは涅槃へとかぐや姫を連れて行こうとしていることがよく分かります。涅槃とは、このブログで、前に「千年女優評論*5」の際に言いましたが、穏やかな場所であり、そして、「無我」の境地に達したものの場所でもあります。まさに月の世界は「無の世界」なのです。月自体も「それ単体で光っているわけではなく、太陽の光を反射して光っている、虚無」ですし、これは竹取物語に書かれている「月の世界」を高畑監督なりに解釈した結果なのでしょう。

 

 しかも、この映画が更に面白いのは、この散々に暗示された「無」や「涅槃」を最後の最後でかぐや姫が否定しようとするところです。これは、ある意味で今までの竹取物語の否定、ともいえるでしょう。

 従来の竹取物語は「欲を捨てること」が主題にある物語とも言えます。かぐや姫を得たいという欲。かぐや姫を高貴な娘にしたいという欲。そして、その欲をかぐや姫や月の世界が否定し、現世の帝は「与えられた永遠の命」を捨てるという、欲を捨てる物語です。欲は穢れである、と。けれども、この映画ではその「欲という穢れ」が必要であることを、かぐや姫は最後に月の使者たちに説こうとします。まさに今までの竹取物語の否定です。

 

 ここから、この映画におけるかぐや姫が犯した罪も、大体の察しがつきます。かぐや姫が犯した罪とは「感情」です。涅槃にいる彼女なのに、彼女は感情を持ってしまい、地球に行ってみたいという「欲」を抱いてしまった。彼女は涅槃にいるべき人物ではなくなり、地球へと堕とされた。かぐや姫自身も劇中で「禁断の地に行きたいと願ったからこそ、罰として禁断の地に堕とされた」と吐露していました。

 

 しかし、この世の穢れが必要であることを悟ったかぐや姫でも、それでも、運命に抗えず、最後には月の世界の人になってしまいます。とても切なく、そして、「無」になることの寂しさが溢れたラストです。*6同時に、僕らという全ての生物の最期を暗示しているようにも読み取れます

 そういう意味で言えば、この映画のラストは銀河鉄道の夜」の裏返しとも言えるかもしれません。

*1:少しクサい…

*2:夢の中なのですが

*3:作るのは主人公・イヴではなく、アダムなのですが

*4:竹取物語の時点でそうなのですが

*5:http://harutorai.hatenablog.com/entry/2013/06/24/204231

*6:ただ、ここ、月に浮かぶ赤ん坊のかぐや姫が余計なんですが…

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