映画感想:未来のミライ
恒例の手短な感想
細田守のジャイアンリサイタルを見て何が楽しいのか
といったところでしょうか。
細田守監督作品の中でも――どころか、それなりに予算を割かれた、アニメ映画の中でも最低の出来と言って過言ではないと思います。
アニメ映画は、どうしてもその作品の性質上、「予算がないと、多少はアレな出来になっても仕方がない」面があり、その分を考慮して評価を考えないといけない難しさがあるのですが、本作はその点で言えば評価が楽です。
どう見ても本作は、予算を大量につぎ込み、優秀なアニメーターたちの才能を無駄に消費させた上で、作り上げられた巨大なクソ映画であることは自明だからです。
本作は、宮崎駿やら、高畑勲の失敗作・迷作とも比べ物にならないレベルでの駄作です。ハッキリ言って、本作は全てがどうしようもない出来で、どの要素から悪しざまに貶したとしても問題がない作品です。
例えば、この作品のタイトル「未来のミライ」についてもそうです。ハッキリ言って、この作品を見た人は大抵、「未来のミライ」という題にとてつもなく違和感を覚えたはずです。なにせ、未来のミライちゃん、本編に二回しか出てきませんから。
そして、テーマと比較して考えても「未来のミライ」という表現はおかしいわけです。この作品の言いたいこと(これについても、色々な文句があるので後述しますが)からすると、本作品のタイトルは「未来のミライ」ではなく「現在のクン」になってないとおかしいのです。
でなければ、なんのために作ったあのラストなんだよ、という話になってしまいますから。
そして、次におかしいのは登場人物の名前です。言わずもがな、主人公の「くん」です。このふざけた名前はなんなんでしょう。僕は、てっきり予告編で見たときは「あだ名・愛称」として、くんちゃんと呼ばれている男の子なんだと思っていたのですが、どうも本編を見るかぎり、本当に両親が付けた名前のようなんです。
……で、自分の子供に「くん」とかいう、イジメまっしぐらな名前をつける両親の愛情について、この映画はどうこう語っているんですが……正気なんですか?! 愛情?! 自分の子供に「くん」とか付ける人の愛情?!
例えば外国の映画で、自分の子供を「ミスター」なんて名付ける親の物語があったとしたら、それはまず間違いなく、児童虐待をしている親の話になります。
まったくもって、神経が理解できないです。
そして、次におかしいのは、くんちゃんの言動です。主人公のくんちゃんはすごく、幼い子どもの設定なのですが、言葉遣いが変なところで昭和の大人なんですよね。しかも、難しい単語等もまったく淀みなく言えてしまう始末。
好きくないや、索引など「野原しんのすけでさえ、そんな言葉使わないぞ」と言いたくなるレベルの言葉を次から次へベラベラ喋ること喋ること……おそらく、宮崎駿ならば絶対にこんな子どもは描かないでしょう。
そして、極めつけに言えるのは、本編自体のどうしようもなさです。本編はずっとこの構造で作られています。
「くんちゃんにとって、気分が良くない出来事が起こる→ひょこっと突然、くんちゃんの目の前に、変な人が現れる→くんちゃんの心を、その人が全部代弁する→その人がくんちゃんの気持ちを肯定か否定する」
映画として――いえ、物語として、最低の手法でこの映画は紡がれていると言っていいでしょう。なにか起こるたびに、周りの人たちがみーんな、みんな、くんちゃんの気持ちや状況を説明してくれるわけです。
観客からしたら、言わなくても分かることを、いちいち、それもなんかウザったい――いかにも子供受けを狙ったような、子どもを舐めきっている――パントマイム付きで、登場人物たちはくんちゃんの気持ちを語ってくれてしまうのです。
そして、この物語の中枢をなす、テーマも最低で――いえ、確かに言っている事自体、自分たちはたくさんの過去から出来ている、というテーマ自体は良いものかもしれません。
ですが、ハッキリ言って、この物語のテーマって、湯浅政明監督が「マインド・ゲーム」で説明無しで描いたはずのものでしょう?
あるいは金子修介監督が「百年の時計」で、個人どころか時代ごと一気に振り返って見せたものでしょう。
あるいは小田雅久仁という小説家が「本にも雄と雌があります」で「ラディナヘラ幻想図書館」という形で描いたものでもあります。
この映画のテーマは、他の様々な作家が描いてきた偉大なイマジネーションを、とてつもなくチンケに真似しているだけなのです。
それくらい陳腐なテーマなのです。しかも、それをやっぱり、セリフでベラベラと説明しています。他の作家は誰も説明などせず、映像や物語全体や描写だけで描いていたものを。
で、本作はなぜこんな酷いことになっているのか――それは、おそらくですが、細田守という人間自体が原因なのでしょう。
ハッキリ言って、本作をここまで劣悪な出来にしてしまったのは、ひとえに細田守の独りよがりが原因でしょう。タイトルの「未来のミライ」や主人公の「くんちゃん」という名前、全て、細田守がそういう好みだから入れたものなのでしょう。
くんちゃんの、凄まじく違和感のあるセリフ回しも、結局、細田守が声を当てている女優さんにそういう言動をさせるのが好きだからでしょう。実際、劇中では「うぅー」だの「むむぅー」だのそういう言動を未来のミライちゃんや、クンちゃんが無意味にしている場面も目立っていました。
きっと収録現場では、そういう言動を女優さんにさせながら、ニヤニヤしてたであろうことは想像に容易いです。気持ち悪い
そして、やたらめったら説明しまくる本編の惨憺たる様相――これ、別に細田守作品では、今作に限った話ではないですからね。前作のバケモノの子や、いえそれ以前の作品から続いている傾向でありました。
おそらく、細田守は登場人物の気持ちを、作中でズバズバ説明させるのが好きなのでしょう。
そして、テーマ――急にラストになって、それまでそんな話など一つも言い出していなかったのに、索引だのインデックスだの言い出して、ほぼ観客の全員が困惑したことと思いますが、それも、結局、細田守が最後にそういう索引だのなんだのという話をして、自分を格好良く見せたかったのでしょう。
本編も、宮崎駿を真似したような場面もあれば、片渕須直を真似したような場所もあり、山内重保を真似したような場面もあり、湯浅政明を真似したような場面や、芝山努を真似したような場面もあり、原恵一を真似したような場面もありました。
おそらく、細田守が真似したかったのでしょう。
この映画はそれが全てなのです。
細田守の究極の独りよがりであり、独り相撲――端的に言って、細田守のジャイアンリサイタルを見せられただけなのです。
信者ならば、教祖様のジャイアンリサイタルは、最高に見えるのでしょうが、そうでもない人からすれば、ただのジャイアンリサイタルです。見るに値していません。