映画レビュー:パーフェクト・センス
とてつもない悲しみに突如として襲われ、そして、悲しみに明け暮れると同時に嗅覚を失う――そんな症状が世界各地で報告されている中で、スーザンは感染症医として、それが感染症であるかどうかの診断を頼まれる。患者の容態を見たところ、感染症なのかどうなのかはイマイチ分からず、世間にどう公表すべきなのか悩む。
結果、感染症とは発表しなかったものの、次々に人々は大きな悲しみに襲われ、嗅覚を失う症状を発症するようになっていく。やがて、スーザンも発症し、スーザンの住んでいるアパートの近くにあるレストランで働くシェフ・マイケルもその症状が浮かび――
だいぶ、ホラーとは違った意味で(また駄作という意味でもなくて)恐ろしい要素が入った映画であることは間違いがないと思います。この映画は分かりやすくいえば、思考実験映画の一つだといえます。世界中の人間がもし――嗅覚を失ってしまったら――他の感覚も失ってしまったら――社会は一体どうなってしまうのだろう?ということを、真剣に考え、社会がどのように変化していくのかをシミュレーションしている映画です。
そのため、主題になっている「謎の病気」の設定自体は荒唐無稽ながらも、社会が変化していく様子や、それに対する人々の反応などには、かなりの説得力があります。普通のパニックものの映画であれば、謎の病気がひとたび、世界に広まればそれだけで社会システムが崩壊し、荒涼とした世界になるような描き方をしますが、この映画は違います。謎の病気が広まり、嗅覚を失い、病気が進行したとしても、人々の様子は変化しないのです。
もちろん、病気が進行したときや、病気が広まったときに、いっときのパニックは起こります。しかし、パニックが次第に沈静化していき、人々が冷静さを取り戻すと、完全にとまでは言わないものの、人々はまた元の社会を作り上げようとするのです。
この現実的な設定があるからこそ、この映画には荒唐無稽と割り切れない説得力があるのです。そして、説得力があるからこそ、この映画は、妙な怖さがあります。「自分自身がこのような感覚に陥った場合、自分は一体なにをするのだろう。どうなってしまうのだろう」と観客側に感じさせる”怖さ”です。
また、他にも劇中で出てくる映像のいくつかが「映画用に撮ったわけではない”映像資料素材”を引用している」ということも、この妙な現実感を引き立てる要素になっているといえます。映像資料を引用することにより、作り手側が「五感を失わなくても、世界はそういうことやってるよね」という意地の悪いメッセージを発しているようにも受け取れてしまいますし、そこが、また別の”怖さ”を帯びてくるところでもあります。
そして、このなんとなく感じられる作り手側の意地の悪いメッセージに代表されるように、この映画の作り手は、基本的に「世の中」や「社会」というものを嫌悪しています。それは映画冒頭の、人々の様子をナレーション込みで映していくところもそうですし、人々が様々な感覚を失うたびに起こす「パニックの様子の撮り方」などにも感じられます。そういう意味では、オチも含めて、石原慎太郎の小説にどことなく似ているところがあるかもしれません。「あの状況こそ*1がパーフェクト・センスである」というオチも「死の瞬間を感じることこそが、人間が充実する瞬間だ」と主張する慎太郎の小説とかなり似ています。
更に、この映画、ものすごいメタな視点で見ると「作り手=映画の世界における神様」が、「映画という世界の中に形成されている、擬似社会」を直接的に滅ぼさない形で、崩壊させたいために、登場人物たちの五感のうち、一つを感染症という設定で、奪ってはシミュレーションし、「まだ社会形成してやがる!」となって、また奪って「社会が形成してやがる!」となって――を繰り返し、最後に本気で「社会を崩壊させるレベル」まで登場人物の感覚を神様気分で奪っていった話と言えます。
簡単にいえばこの映画自体が「作り手の社会を崩壊させたい願望を充実させるために、作り上げた、擬似社会崩壊録なのではないか」ということです。その作り手が抱えている(ように感じられる)暗い願望もまた、この映画の恐ろしさの一つだといえます。「世の中がこうなったらいい、と本気で思っている人が本当にいるのか」という恐ろしさです。
オチは、誰がどう見ても、セカイ系と言わざるをえないものでしょう。ひょっとすると、世界中のセカイ系作品の中でも、極北といえるレベルかもしれません。ここまで徹底したセカイ系観は珍しいと思います。
非常に人によっては、この作品を鑑賞後に不快感を残される方もいるかもしれません。正直、そういった人にオススメはしません。僕自身も、個人的に言えば、この映画の主張自体には首肯しかねるところがあるのも事実です。しかし、「世の中にはこういう考えを肯定しようとする人もいる」「彼らの主張にも、頷けるところがある。美しいところがある」というその二つを実感できるのもまた事実です。*2そういうところを認められるという人だけ御覧ください。